【第1回】サッカーワールドカップ玉手箱(1970年代)

2018年は私にとって、プライムコーストみなとみらいクリニックが開院して新たなキャリアを踏み出す記念すべき年になりました。と同時に、今年は私にとって4年に1度の重要なイベントの年でもあります。

そう、サッカーワールドカップの年です。
ご存知のように、今年のワールドカップは6月14日から約1か月間、ロシアで開催されます。

当クリニックのホームページの自己紹介でも記載させていただきましたが、私は整形外科医としてのキャリアの初めのころは、スポーツドクターとして日本のサッカーの発展に貢献したいと仕事をしてきました。

その理由は、何よりサッカーが好きだったからにほかなりません。
だから、この歳になってもワールドカップ開幕が近づくと興奮を抑えることができません。
そんな思いを今回、クリニックのブログに綴らせていただくことにしました。

サッカー好きの方、特にオールドサッカーファンの方とともに、私にサッカー心がついてからの記憶に残るサッカーワールドカップの想い出を数回に分けて紐解きたいと思います。

第1回は、1970年代のワールドカップを振り返りたいと思います。

(図1)幼いころ初めて見た白黒デザインのサッカーボール
私が初めてサッカーというスポーツに関心を持ったのは、小学校6年生の時でした。 動機は極めてシンプル、それまで見たことのなかった白黒の亀甲デザインが施されたサッカーボール(図1)に一目ぼれしてしまったのです。 こんな美しいボールを使うスポーツをしてみたいと思ったのがきっかけでした。


(写真1)1968年メキシコオリンピックでサッカー日本代表銅メダル!
時は1968年、サッカー日本代表が釜本というエースストライカーを有し、メキシコオリンピックで銅メダルを獲得し、我が国に第一次サッカーブームが沸き起こった年でした。


その後、中学に進みサッカー部に入部した私は、サッカーの世界では、当時アマチュア選手しか参加できなかったオリンピックよりももっとレベルの高い、プロ選手も交えた真のサッカー世界一を決める大会がワールドカップであるということを知りました。

そんな私にとって初めてのワールドカップは1970年のメキシコ大会でした。
日本もその大会のアジア・オセアニア予選に参加しましたが、エースストライカー釜本が病気のため不参加だった日本代表は、韓国、オーストラリアとの3か国での1次予選で敗退してしまったことを今でも覚えています。

当時は今と違って、テレビ中継はなく、ラジオにかじりつき紙に書いたサッカーフィールドの上でボールの位置を想像しながら予選を聞き入っていたものです。 今のサッカーファンには想像もつかないでしょうね。

メキシコワールドカップ本大会には、当時のルールで現在の32か国の半分、16か国しか参加しませんでしたが、メキシコオリンピック以外に日本リーグしか見たことのなかった中学2年生の私は、ほぼすべての試合から強烈な衝撃を受けました。その中で、今でも名勝負として語り継がれている、準決勝のイタリア対西ドイツの試合には特に感銘を受けました。

後半終了間際、0対1でリードされていた西ドイツのゲルマン魂の塊、ディフェンダーのシュネリンガーによる同点ゴール、そして延長30分間に5点を取り合い、最終的にはイタリアが超頭脳ジャンニ(本名ジョバンニ)リベラ(写真2)の決勝ゴールで勝ちを収めたシーン、現在でもワールドカップの回顧録としてたまにテレビ放映されるこの試合、若いサッカーファンでもご覧になったことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか?

(写真2)1960年代のACミランに所属し数々の栄光を手にしたジャンニリベラ

そして決勝、西ドイツとの死闘を制したイタリアを4-1で下したブラジルのサッカーはさらに強烈でした。スポーツニュースや何か月もたった後にダイヤモンドサッカーという当時唯一世界のサッカーを観ることのできる番組に映った神様ペレの現役最後のワールドカップでのヘディングシュート(写真3)や主将カルロスアルベルトの目にもとまらぬ4点目のシュートなどは中学2年の私にとって、まさに夢のサッカーでした。

(写真3)1970年メキシコワールドカップ決勝 神様ペレのゴール後
ちなみに、この大会までの優勝トロフィーはジュールリメ杯といって1930年の第1回ウルグアイ大会から使用されてきたものでした(写真4)が、3回優勝した国は永久保持というルールがあったためこの大会で優勝3回を数えたブラジルの永久保持が決まり、次のワールドカップからは新しい優勝トロフィー(現在と同じもの)が使用されることになりました。

(写真4)永久保持が決まったジュールリメ杯を掲げるブラジルのカルロスアルベルト主将
私にとっての2回目のワールドカップは1974年の西ドイツ大会、この大会で私は自分にとってのサッカーの神様に出会いました。 今は亡きヨハンクライフ(写真5)です。

(写真5)空飛ぶオランダ人:ヨハンクライフ
クライフ率いるオランダのトータルサッカーは世界に衝撃を与えました。
特に準決勝ブラジル戦での2点目となったジャンピングボレーシュートは、後にクライフが空飛ぶオランダ人と命名されるほどの見事なゴールでした。

その他にも、ヨハンニースケンス、ルートクロル、ヨニーレップなど名選手が目白押しで、当時高校サッカー選手だった私は、今でも使われるクライフターンというフェイントを何度も何度も練習したものでした。 また、当然オランダが優勝するものと思っていました。

初めて日本にもライブでテレビ放映された決勝の相手は開催国西ドイツ、案の定キックオフからのファーストプレーでヨハンクライフがドリブル開始、これを止めることができなかった西ドイツディフェンダーが思わずPKを献上、ヨハンニースケンスがこれをゴールのど真ん中に決めて早々にオランダが1点をリードしました。

しかし、その後皇帝ベッケンバウアー率いる西ドイツは猛反撃、クライフにはベルティフォクツがマンマークして仕事をさせず、その間に爆撃機ゲルトミュラーらが得点を重ね、2対1で逆転優勝したのでした(写真6)。

(写真6)1974年西ドイツ大会は皇帝ベッケンバウアー率いる西ドイツが優勝、トロフィーは新調された現在と同じもの
クライフを神とあがめていた当時高3だった私はおおいに失望して受験勉強に身が入らなくなってしまったことを今でもよく覚えています。

次のワールドカップは1978年のアルゼンチン大会でした。
軍事政権下で開催されたワールドカップでしたがサッカーには関係なし、素晴らしい雰囲気の中で試合が行われていきました。特に印象に残っているのは開催国アルゼンチンが試合するときに必ずまかれたスタジアム全体を覆う紙吹雪、本当に印象的でした。

このころになると、日本でもライブを含めたテレビ放映される試合も増えました。
当時、大学生で医歯薬獣リーグを戦っていた私にとって、ワールドカップの試合1試合1試合がまさにテキストであったことをよく覚えています。 決勝は開催国アルゼンチンと前回西ドイツ大会に引き続き決勝に進んだオランダでした。

しかし、この時のオランダにあのヨハンクライフの姿はありませんでした。 それでも、ロブレンセンブリンクらが果敢にアルゼンチンゴールに迫りましたが、前後半の90分は1対1で決着はつきませんでした。

そして、延長。 この延長で2ゴールを挙げて、アルゼンチン初優勝の立役者となったのが、マタドール(闘牛士)マリオケンペス(写真7)でした。

(写真7)マタドール、マリオケンペス
長髪をなびかせオランダゴールにドリブルで突き進むケンペスの姿は、今の日本代表にはない個の力を誇示するエースストライカーでありました。 まさに、この大会はケンペスのための大会と言っても過言ではありませんでした。

今回は1970年代のワールドカップを語らせていただきました。 次回は、1982年から1990年までの大会を語りたいと思います。 どうぞ、ご期待ください!